--ベルリンの壁と戦争の跡(1972年)--

 1972年(昭和47年)のベルリンの写真です。今は統一ドイツの首都です。

 この当時ベルリンは東西冷戦の中心地で、ソ連が支配する東ドイツの広大なエリアの中央にあるベルリンの一部分だけが連合国管理(アメリカ・フランス・イギリスの3カ国)となっていました。この地区を西ベルリンといい、ドイツであってドイツではなく、西欧側への通路はこの3つの国の飛行機だけで、敗戦したドイツの航空機は乗り入れできませんでした。

 ベルリンの市内に作られた「ベルリンの壁」はドイツ統一で崩されるまで、東西冷戦のシンボルとして数々の悲劇を呼びました。

 1972年当時は外貨獲得の手段として、西側からの観光客だけを日帰り条件で東ベルリンに受け入れていました。もちろん地元民は通れません。

 一人10マルクの東ドイツマルク両替を条件として、厳重な検査、車の床下やトランクまで検査をして、唯一東西の連絡通路として作られたチェックポイントチャーリーから東ドイツへ入ることができました。

ベルリンの壁と戦争の跡(1972年)01 ベルリンを代表する凱旋門としての性格のブランデンブルグ門は西側には壁が作られ、門に直進する通りは、東側はリンデン大通り、西側は6月17日通りとなっています。西側からの写真で手前が壁です。
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東側からの写真です。門までは自由に近づけそうに見えますが、銃を持った厳重な監視が付いています。手前はリンデン大通りです。
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東側には交通の要所として、アンハルター駅がありました。上野駅に匹敵する大きな駅でしたが、戦争で爆撃されて、廃墟となっています。一部分の壁しか残っていない廃墟の駅と、栄華を誇った頃のアンハルター駅の印刷物を古い文献で見つけましたので、ご覧ください。
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東ベルリン市内の廃墟の跡と風景。戦後27年経ってもベルリン市内特に東ドイツ側にはいたるところに戦争の被害が残っていました。
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